ナイスミドルになりたい~松本孝行のブログ~

教育とか雇用とかの社会問題、後は趣味のマンガを中心にしたテーマで書いてます。アゴラや自社サイトにかけないだろうなーっていう話題がメインです。

会社がIT化しない理由

私もウェブ業界にいるので、こういうのってもっとちゃんとIT化したらいいのにな~と思う。IT化することで生産性は上がるはずだからだ。

ただ、中小企業の社長の立場で考えると、IT化せずに手動で行うという判断はよく分かる。

なぜ中小企業は会社をIT化しようとしないのだろうか。

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理由1:従業員を他の仕事に回せない問題

1つ目が従業員を他の仕事に回せない可能性だ。今まで決まっていた仕事ならできるけれども、それ以外の仕事に対応できないという場合もある。IT化したあとは時間と労力が余るわけで、それを別の仕事に回すことが求められる。そのための仕事を嫌がる可能性もある。

IT化した後により効率的な仕事、付加価値の高い仕事をしてもらおうと思っても、そういう仕事ができない可能性もある。まぁ一人あたりにできる仕事の数を増やす、ということで付加価値を上げるということもできるだろう。

従業員がIT化に対応するかどうかは別の問題だ。もちろん経営者もだ。

理由2:新しい仕事を取れない・作れない問題

もう一つが新しい仕事をとってくる、もしくは新しい仕事を作れない問題だ。これは経営者にも従業員にも原因があるのだが、IT化することによって効率的になった場合、手が空くわけなので他の仕事をする必要が出てくる。

ただ、その仕事を取ってこれるか?新しいビジネスを作れるか?というと中小企業の場合は難しいところも多いだろう。新しい仕事を作ってチャレンジするだけのリスクを取るか?そしてそのリスクある仕事をしたいと従業員が思うか、それは企業によるとしか言えない。

もちろん既存の仕事の量を増やすということも可能ではあるが、それができるのであればIT化して効率的にするだろう。それをしないのだから、こういった可能性がある。

理由3:社長の成長意欲が乏しい問題

最後が社長の問題で成長意欲を持っていない場合だ。社長がどんどん会社を大きくしていこうと思っているかといえば、そうではない。年収1000万円を超えたし、経費を抑えるために外車を購入することもできるし、別にこれ以上大きくする必要ないやと思っている場合もある。

そういうときには社長はIT化をして効率的にしようと思わないだろう。手作業で時間がかかっても今のままでいいじゃない、と思うわけだ。アニマルスピリッツがあればいいのだが、最近は「成長しなくていいじゃないか」みたいな言論もよく聞く。それが経営者にも波及している可能性もある。

経営者の年齢も関係しているだろう。高齢になっていけばいくほど、そういったアニマルスピリッツはなくなっていくだろうし、年齢が若いとそもそもIT化するほどの金が無いといったこともあるだろう。

IT化=成長できる企業の証

結論としてはIT化するということはその企業が成長できる証でもあり、IT化に躊躇するということは成長を拒否する企業であるということだ。もちろん企業それぞれに事情があるわけで、それを外部がとやかく言うことは難しい。

とはいえやはり日本でも成長しよう!という企業が増えればいいなとは思う。

日本人はどこまで日本人なのか?

大坂なおみ選手が全米オープンで優勝ということで、えらく盛り上がった。錦織圭選手あたりから、日本でもテニスがちょこちょこ盛り上がるようになってきたのはいいことなのだろう。

さて、そんな大坂選手の会見で自分のアイデンティティについて質問した記者が炎上していた。

togetter.com

質問した記者のTwitterはリプライがすごいことになっていた。みんなガンガン批判ツイート投げつけていたようだ。

日本人っていったい?

大坂なおみ選手はテニスの国籍は日本ということになっているが、親父さんがハイチの方だそうだ。母親は日本人で、ハイチと日本のハーフということになる。生まれたのは日本の大阪だそうで、靭公園などでもテニスをしていたそうだ。で、4歳の頃にアメリカに移住したそうだ。

つまり彼女は日本生まれアメリカ育ちのハイチと日本にルーツを持つ人物、ということになる。マスコミはじめ、多くの人達も彼女を日本人として認識している。「日本人初」と言う触れ込みからもそれはわかるだろう。

ではいったい日本人はどこまで日本人なのだろうか?

例えば陸上で言えばケンブリッジ飛鳥選手、日本代表として活躍している。元サッカー日本代表ラモス瑠偉さんはブラジル生まれでブラジル国籍と日本国籍保有している(ブラジルは国籍を放棄できないそう)。

スポーツ以外では青色発光ダイオードの開発でノーベル賞をとった中村修二さん、同じくノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎さんはアメリカ国籍を取得している。日本生まれのアメリカ国籍なのだが、実際にノーベル賞を取得した日本人の中に数えられている。

日本国籍があれば日本人なのか?というと南部さん・中村さんの例から見てもそうではないようだ。生まれが日本であることが重要なのか?というと、ジャマイカ生まれのケンブリッジ飛鳥選手やラモス瑠偉さんは日本代表になっている。

ルーツというアイデンティティ

もう一つ、この問題を考える上で面白いニュースがあった。2018年ワールドカップでフランスが優勝したのだが、優勝はアフリカだという書き込みが議論を巻き起こした。確かに一躍スターになったエムバペやポグバなど、アフリカにルーツを持つ選手は多い。

www.j-cast.com

サッカーで言えばもう一つ、このルーツや国籍、民族というものをよく表しているインタビューがある。ベルギー代表のロメル・ルカクのインタビューを書き起こした下記の記事が興味深い。

premierleaguepub.jp

上記書き起こしでこのような部分がある。

上手くいっているときに新聞を読むと、彼らは僕のことをベルギー人のストライカー、ロメル・ルカクと呼んでいた。 

上手くいっていないときは、彼らはコンゴ系ベルギー人のストライカー、ロメル・ルカクと呼んでいた。

 

ベルギーもルカクをベルギー人として扱ってはいる。しかし調子が悪いときには彼らはルカクは俺たち純粋なベルギー人とは違う」と考えているのではないか?と推測できる。フランスも優勝できなかったとしたら、このように「フランス人だがフランス人ではない」というような扱いを受けたのだろうか。

ルーツと国籍と育った環境と

今やグローバル時代となり、多種多様な人が日本にも世界にも存在している。ルーツも様々だし、育ってきた環境も様々だ。近々ラグビーワールドカップがあるが、ラグビー日本代表にはたくさんの外国ルーツの方がいる。国籍が日本でなくても日本代表になっている選手もいる。

我々はどこまでを日本人として捉えるのだろうか?大坂なおみ選手がアメリカ国籍を取得し、日本国籍を放棄した場合、彼女を日本人として考えるのだろうか?それともアメリカ人として考えるのだろうか。

また、彼女がテニスでいい成績を残さなくなったとき、彼女を日本人として扱うのだろうか、それともハイチ系日本人として、純粋な日本人とは違うと扱うのだろうか。

日本のイノベーションが世界とかけ離れている件

こないだソーシャルイノベーションに関するイベントがあって、ちょっと行ってきたんです。まぁ障害福祉とか発達障害の方にIT・WEBのスキルを!とか言っているので、ソーシャル系には興味があるわけで。

ただ、最終的にわかったのは大阪万博誘致に関係したイベントだそうで、ソーシャルイノベーションを単純にダシに使われたって感じだったけど(笑)

そんなイベントでソーシャルイノベーションの事例を紹介していたんだけど、すごくモヤモヤした気持ちになった。だって紹介した事例、それはイノベーションではないのだから。

国・自治体に許可をもらうことがイノベーション

どんな事例だったかというと、自治体が所有する住宅(市営住宅とか)に格安で住みつつ、そこを職業訓練の場にしてニートやフリーターの就職につなげよう!というものだ。このビジネススキーム自体は画期的だなと思うし、イノベーティブな部分を持ち合わせていると思う。

ただ事例としてこのスキームは紹介されたけれども、焦点はそこじゃなかった。試験運用するために、約3年かけて自治体の職員を口説き落としたということ、そこがソーシャルイノベーションだと言っていたのだ。

私には全く意味がわからなかった。なぜなら3年かけなくてもトップダウンで市長や知事が「やれ!」と命令を下せば、3年もかからず済むからだ。さらに言えばこのスキームのビジネスを行うには国・自治体のルールがボトルネックになっているわけだ。言い換えれば国・自治体が邪魔しているのだ

国や自治体が邪魔しなければスムーズに進んだことを、国や自治体を説得するのに3年もの時間を費やすことのどこがイノベーションなのだろうか?

景気上昇のためにも規制緩和

もう毎度毎度言われていることだからあえて主張しなくてもいいかもしれないけど、やっぱり規制緩和が一番必要。国や自治体の職員も嫌がらせでやっていることではなく、ルールに則ってやっているのだと思う。たとえそのルールがどんなにイノベーションを阻害するようなものであっても、だ。

であればもうトップダウンでルールを変えるしか無い。規制緩和を促進して、なるべくボトルネックになっている部分を取り除いていけば、日本でもイノベーションが生まれやすくなるのではないかと思う。イノベーションが起これば景気も上がるのだから、もっと規制緩和が必要だ。

しかしまぁ世界ではFAGAだとか言われているのに、大阪ではイノベーションの事例が国と自治体を3年かけて説得した、ではなぁ…

勉強しないエンジニアは周りにおいていかれる自分を受け入れるべき

axia.co.jp

リベラル側の人たちだろうか、上記のブログに反論する人たちが一定数いるようだ。彼らが言うには「プライベートで勉強させるのはサービス残業だ」「就業時間中に勉強するべきだ」なんて言うことを主張している。

まぁ簡単にいえば彼らは周りと自分自身が同じように進みたいと思っているわけだ。同僚の給料が上がれば自分も上がる、同僚が新しい仕事にチャレンジすれば自分もチャレンジする、もちろん後輩が入ってきたら後輩は自分よりもスキルもキャリアも低いのが当たり前で自分を追い抜くことはない。

共産主義とまでは言わないが、昔の日本企業の考え方だ。つまり社会主義的な考え方なのだ。

自分のスキルにあった立場を受け入れる

まずそもそもの話として、上記ブログではサービス残業しろとかプライベートで勉強しろと強制していることは一切ない。内容を読めば「そういう生き方もいいんじゃない?」とプライベートで勉強しないエンジニアの選択を尊重している。勉強しろと言っているわけではないのだ。

ただ、周りのシステムエンジニアプログラマは「就業時間以外で勉強しない」という選択肢を選んではいない。仕事終わりに新しい技術を学んだり、自分自身で本を買ってきて読んだり、勉強会に参加したりと自主的に動くことで、スキルアップしている。

当たり前だけど、週に40時間の仕事中の空いた時間だけに勉強している人と就業時間中以外でも勉強している人が同じ能力なわけ無い。だからどんどん差が開くわけだ。社長さんが「Aさんの要求はこういうことじゃないか?」と下記のように推測しているが、私もそうだろう。

Aさんの要求は、プライベートでは勉強したくない、でもプライベートで勉強している他のエンジニアと同じように成長したいということだったと思われますが、正直こんなこと私に一体どうしろというのか。

プライベートで勉強しない人を排除しているわけではない。会社としてはその人のスキルにあった仕事を与えている。1のスキルを持っているのであれば1の仕事を、5のスキルなら5の仕事を与えるのは当然だ。だから勉強する同僚は5の仕事をして、勉強しないAさんが1の仕事が与えられるのは全くおかしなことではない。

むしろ不思議なのはなぜその結果を受け入れようとしないのか、だ。自分のスキルにあった仕事を受け入れず、他の同僚たちと横並びになりたいっていうのはどういう思考回路なのだろうか。

できる人・できない人の差を受け入れるべし

今回の事例は「プライベートで勉強をする人としない人ではスキル・キャリアに差が出る」という話しではあるが、人間は当然いろいろな差がある。身長の高い人・低い人、太っている人・痩せている人、頭の回転が早い人・遅い人、人付き合いがいい人・悪い人…などなど、違いがあるものだ。

子供の頃であれば「足の早いアイツみたいになりたいな」「カワイイあの子みたいになりたいな」と思うこともあるだろう。当然、大人になっても「あんなに仕事ができるカッコイイ先輩に俺もなりたい!」と思うことはある。

しかし子供と大人では捉え方が違う。子供は「いつかはああなれる!」と盲目的に信じることも多い。しかし大人になれば「俺はああはなれない」と悟るものだ。イチローみたいにはなれないし、マッキンゼーゴールドマン・サックスでは働けないと。

おそらくブログに書かれていたAさんは勉強すればできる人なのだろう。その自負もあるのだと思う。現に入社してから研修を受け、戦力になっているわけだから。だから周りのエンジニアがどんどん成長しているのに自分だけ成長しないことに焦りを抱いているのだと思う。

でもそれは自分の行動の結果なわけだ。勉強する時間を確保しないということを自分で選択したわけだ。なら、その結果に責任を持つのが当然だろう。

トップ選手でも時間を費やす必要性を痛感

たとえ本田圭佑香川真司のようにすごい選手でも、試合以外では練習しないとなれば、プロサッカー選手の中では置いていかれるだろう。本田圭佑は「成功したいなら休日に休むべきではない」と言う。

news.livedoor.com

まぁ本田圭佑は世界で戦うトッププロなわけだから、一般人と一緒にはできない。しかしそんなプロでも成功するためには、時間を使って練習しないといけないということを感じているわけだ。あの才能の塊の人たちですら、練習に時間を割いているし、より効率を上げる方法を学んだりしている。

才能があろうがなかろうが、後輩に抜かれたくない・同僚と同じように成長したいというのであれば、それなりの勉強時間を割かなければならないだろう。同僚と同じように成長したいけれども、自分は同僚みたいにプライベートでは勉強しないというのであれば、それはおこがましすぎる。

選択肢は2つしか無い。同僚と同じくらい勉強をするか、それともプライベートの時間は勉強せず、同僚に置いていかれる自分を受け入れるかだ。「プライベートの時間は勉強せず、同僚と並んで成長する」という選択肢はない。努力した人が報われる社会であるべきだ。

2018年9月に発売される読む予定のマンガ

ここ最近忙しくてブログを書く暇すらなかった。10月から新しい事業所を立ち上げるためにお金借りたり備品を揃えたり、いろんなことをしていた。土曜日も普通に働い手足し、まぁ忙しかった。

今も忙しいので月曜日からまた頑張らないと行けないわけだが、とりあえず空いた時間で9月のマンガについてまとめてみよう。8月はマンガ喫茶で読む予定のマンガをギリギリ読めたレベルだったが、9月はどうなることやら…

9月に読む予定のマンガ

ピックアップ

さて今回のピックアップは「鮫島、最後の十五日(19)」だ。先日、作者が急死したというニュースが飛び込んできてショックを受けた。主人公の鮫島も、いつ死んでもおかしくないような、そんな取り組みをいつもしている。鮫島よりも先に作者が亡くなるなんて、だれが想像できただろうか…

 

せめて作品だけでもなんとか完結できれば、一つの弔いになるかもしれない。

もう一つとりあげると、2ヶ月くらい前に読み始めた「チカーノKEI ~米国極悪刑務所を生き抜いた日本人~(4)」だ。刑務所ものは海外ドラマだとかなり面白いのでよく見ているのだが、マンガでも読むとなかなか面白い。犯罪者だらけの中、日本人が生き抜いていくというストーリーだが、悪い人たちの中にも譲れないものがあるというのがよく分かる。

というわけで、9月もまだまだ暑いので漫画喫茶で涼みますか(笑)

【映画】ゲッベルスと私ー睡魔と闘いながらも、内容は大変興味深い

www.sunny-film.com

ナチスで宣伝・広報のトップだったゲッベルス。その秘書を勤めていたという方が語る映画。基本構成は彼女が語り、当時のプロパガンダ映画や記録映像を流すという2つを織り交ぜている。淡々と、白黒映像が続くのでまぁ眠い(笑)寝てる人もいたし、途中で出ていく人もいた。

構成としてドキュメンタリーかつ語りが中心なので、眠くなりがちではある。ただ、内容は結構面白いものがたくさんあった。当時のユダヤ人はこうあるべきだというプロパガンダ映画はなかなかショックだった。

彼女は毎日を生きていただけ

映画での彼女の語りを見る限りでは、単に「私は毎日を過ごすために一生懸命生きていただけ」というふうに取れる。多分、それが本当だと思うし、本音だろう。彼女は働き、より良い仕事を求め、みんなと語らい、人生を謳歌した。それが単にナチスの政権下だった、というだけだ。

おそらく、私を含めた多くの人が毎日を生きているわけだ。好きとか嫌いとか関係なく仕事をし、毎日の生活のために働く。それが多くの人にとって普通であり、たとえ政権がトランプ政権だろうが安倍政権だろうがナチス政権だろうが、やることは変わらない。ただ単により良い仕事を求めていたわけだ。

今の若い人たちは「あのような政権には私は従わなかった」と言う。しかし彼女は「あの頃の雰囲気に逆らえる人はいなかった」と強く否定する。

日本の行方に責任を持てますか?

彼女は「私は悪くない」という。しかし「ドイツ国民全員が悪いといえば、それは正しい」という。つまり、「政権に近かった人たちだけ」が悪いわけじゃない。ヒトラーゲッベルスも彼女も含め、ドイツ国民全員に非があるというわけだ。

おそらく日本でもそれは同じだ。例えば日本は世界に類を見ないレベルの負債を抱えた国家だ。返済のために国債を発行し続ける状態だ。税金を上げるにも選挙で落ちることを怖がる政治家には税金を上げる事はできない。国民が増税に反対だからだ。どんな状況であろうとも、反対だ。

この状況、確かに年齢の高い人達ほど多くの責任があるだろうが、今働いている人たち、引退した人たち全員に責任があるといえるのではないだろうか。日本がどうなるかわからないが、財政悪化によって不幸な未来になるというのであれば、我々に責任があるだろう。

しかしでは今の世の中で誰が何をできるだろうか?おそらく多くの人は私も含め、毎日働いて家族と生活し、友達と語らうしかできないだろう。

何もナチス政権だからというわけではない、我々はどんなときでも無力なのだ。しかしだからといって、何もせずにいていいわけではない。生活をすると同時に、それ以外にやるべきことを探さねばならないのだろう。

【感想文】日本と親和性が高いドラッカーからマーケティングを学ぶ

ピーター・ドラッカー マーケターの罪と罰

ピーター・ドラッカー マーケターの罪と罰

 

日本では企業経営・マーケティングといえばこの人、というくらい有名なドラッカー。世界的にはそこまでじゃないようだけれども、ドラッカーの指摘することはかなりまともで、日本人なら納得しやすい事が多い。

そしてこの本では様々な常識をくつがえすような提言をしているのも面白い。本書に出てくる常識を覆されるであろうドラッカーの提言を紹介しよう。

プロフェッショナル意識が組織を滅ぼす

プロフェッショナルであろうとすること、プロ意識というのは非常に重要と考えられているが、ドラッカーはそれが危ういという。

プロであるということ、プロであろうとすることは悪いことではない。ただ「なぜプロであらねばならないのか」という目的を持たない場合は最悪の方向に進みかねないという。企業の目標とプロ意識が必ずしも同じ方向を向かないことがあるというわけだ。

例えばホームページ作成でウェブデザイナーがプロらしくかっこいいデザインを作ることがある。デザインのプロなのだから、素人にできないウェブデザインを行うことが仕事だ。ただ、組織・企業の目的は決してきれいなウェブデザインを行うことではない。多くの企業に効率的に良いウェブサイトを作り、利益を上げることだ。

デザインのプロとして良いデザインを作ることは必ずしも会社の目的と一致しないこともあり、一致しない場合には悪い影響を与えかねないということだ。プロ意識は良いことのように思うけれども、一概には言えないということだ。

販売とマーケティングは対立しうる

もう一つは「販売とマーケティングは対立しうる」という考え方だ。

トップセールスマンがいる企業があるとしよう。毎月毎月、商品を一般的な営業マンの倍は売る。他の人には真似できないし、多大な利益を企業にもたらしている。

しかしマーケターとして考えないといけないのは「このトップセールスマンに頼る方法がベストなのか?」ということだ。企業として販売を継続して多く行い、利益を残していく、最も良い方法は他にないのか。もしかするとどんな営業マンでも受注できるマーケティングを基礎にして各営業マンに活動してもらうほうが、より利益が残せるのではないか。

販売するセールスマンの能力が高いことは企業として喜ばしいことだ。しかしマーケティング戦略を組んだときに、そのセールスマンのやり方と反対の方法を選ぶこともあるわけだ。このあたり、フミコフミオさんが実例を用いて書いているので良ければ参考にしてみてほしい。

delete-all.hatenablog.com

このように面白い話がたくさんあり、目からウロコのことも多い。マーケティングに興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

【映画】子どもが教えてくれたことーまさに「ライフイズビューティフル」

kodomo-oshiete.com

子どもが教えてくれたこと、見てきました。フランスのミニシアター系映画で、難病の子供たちが病院や学校を通して、どのように生きているかを描いた映画。撮影する製作者側が余計な演出をまったく入れていないので、子どもたちのありのままが映し出されている。

子どもたちは腎不全や心臓機能が弱い、腫瘍があるなど様々な病気を持っている。しかし彼らが楽しそうにしている姿がたくさん映し出されている。ほっこりするというか、病気ではあるけれども、彼らは一人の子ども・人間であるのだ。

配られたカードで勝負するしかない

一人の女の子「アンブル」は心臓が弱く、激しい運動ができない。いつも薬を投与するための機会を背負って置かなければならないらしい。彼女は激しいスポーツはしないけれどもバトミントンを楽しむことはできるし、演劇には力を入れている。自分ができることを精一杯やろうとしているわけだ。

彼女は言う「ややこしいことは忘れて、今を生きるしかない」と「それが人生というものだ」と。子供のうちから自分自身の置かれた境遇とうまく付き合っていくことを、自分自身で結論づけているのだ。

我々も「もっと金持ちだったらな」とか「もっと頭がよかったらな」ということを考えることはあるだろう。しかし人生は平等・公平ではなく、生まれも違うし病気の有無も違う。人それぞれ持って生まれた物があるのだ。

たまたま彼女は病気を持って生まれた。それは不幸なことだと多くの人が思うだろう。だが、本人はそんな中でも生きる喜びを見つけ出し、楽しんでいる。親や病院スタッフなど、周りの協力もあるのだろう。しかし一人の子供が楽しそうにしている姿を見ているのはこちらも嬉しくなる。

誰にでも「生きる喜びを知る権利」がある

小さな男の子「イマド」は腎臓が悪い。透析をしているのだが、ふとした時に泣き出してしまう。自分自身に嫌気がさしたのかもしれない。「どうして自分だけこんな目に合うんだろう?」そう考えてしまったのかもしれない。感情が溢れて泣いてしまう。

泣くこともあるけれども、彼はいろいろなことを経験する。病院の中で友達と仲良く遊ぶ、勉強をすることも。そして働く大人たちに仕事について体験させてもらう…彼は彼の中で病気と付き合い、一生懸命生きる喜びを体感しようとしているのだ。

この映画を通して子どもたちは病気でありながらも、生きる喜びを感じているように思う。どんな状況で生まれたとしても、その中で生きるという喜びを知る権利が誰にでもあるのではないだろうか。もちろん社会保障費の問題や所得格差の問題などもあるだろうが、人権のことをよく考えているフランスならではの作品だろう。

我々は生きる喜びを知るために、一生懸命生きているか?問いかけられた気がする。